錦上花を添える
一年の計は桜かな!
我々が桜という花を「春の証」あるいは「人生の新たなる出発点」としてこよなく愛するのは、その華やかさや荘厳な世界に広がる「新たなる精神感」や、厳冬から目覚めた「俗世界の浄化」とともに、散り際の潔さに心惹かれるからだろうか。
桜の蕾が綻び、開き、満開になる。散って、花弁が清風に同化し舞う。桜としては自然の流れに逆らうことなく、ただただ生きているだけなのだろうが、人はそこに人の生を彩る「過去の追想や郷愁」を投影してしまうからではないだろうか。
むろん、誰もがみな明日に向かって、雄々しく足を踏み出せるわけではない。人が生きているその数だけの別れも旅立ちもあるだろうが、私は常に春は「始まり」よりは「別れや終焉」といったはかない春を経験した「ネガティブ」の部類に属する人生を経験した記憶のほうがとても多い。
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そんな最中に緊急事態宣言が解除されるニュースを聞いた。私の生活圏は神戸、大阪、京都なので今からそわそわと気持ちが落ち着かないのは、昨年はコロナが蔓延し始めるために桜を見ることができなかったためである。
今年は昨年の分まで桜吹雪を満喫したいとする気持が高ぶり、カメラの手入れやレンズの選択に余念がないのは確かである。
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人皆美しき・・・晶子
「錦上花を添える」・・・こんな体験をしたいものだ。
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二年前の写真を添えて「ソメイヨシノ」を自慢したい