アジサイの花が咲き始める季節は、いつも少しだけ気持ちがゆるむ。雨の匂いが先に立ち、空の色が淡くなり、街の輪郭が薄い絵の具でぼかされるような時期だ。そんな日々のどこかで、庭の片隅や道ばたの植え込みに、ひとつ、またひとつと青や紫が灯る。派手ではないのに、確かに存在を主張してくる色合いだと思う。

私はアジサイを見ると、「急がなくていい」と言われている気がする。花そのものが強く前に出てくるというより、雨に濡れた葉の上に、そっと色を置くように咲くからかもしれない。しかもアジサイは、同じ株でも年によって表情が変わる。花の色が土の条件で変わるという話を聞いたとき、私は妙に納得した。人の気分も、環境によって色が変わるのだとしたら、私たちもまた、季節の手のひらの上で育っているのだろう。
咲き始めの頃のアジサイは、まだ控えめだ。蕾は固く、色づきも完全ではない。遠目には「何かが始まった」程度にしか見えないのに、近づくと、ひとつひとつの花が丁寧に抱かれている。雨粒を受けたときの艶、花びらの縁の微かな波打ち、そこにある時間の積み重ねが、手に取れるように思える。見慣れたはずのものが、ふと別の速度でこちらに迫ってくる瞬間がある。

この季節、私はいつも少しだけ歩く距離を伸ばす。理由は大げさなことではない。ただ、アジサイがある場所へ行きたいのではなく、アジサイがある“気配”を確かめたいのだ。植え込みの暗がりに青が差しているか、濡れたアスファルトに紫が映りこんでいるか。そういう小さな発見が、気持ちの針を正しい場所に戻してくれる。
雨が降ると、アジサイはさらに生き生きする。水を吸った葉が重くなり、色は少し濃く、花は少し柔らかくなる。歩けば服が濡れるし、帰り道は靴が重くなる。それでも、私はこの季節の不便さが嫌いではない。雨は、急いでいる人の予定を止めるのに似ている。予定の手綱をほどく力がある。だから、アジサイの花を見ているときだけは、自分の時間もほどけていく気がする。

ただ、アジサイの季節には終わりもある。咲きそろったあと、色は少しずつ薄れ、花はゆっくりと枯れていく。枯れていくことまで含めて、あの丸いまとまりが美しいのだと私は思う。切り花にしてしまえば、花はその瞬間から時間を早送りされる。でも庭で咲くアジサイは、たとえ静かにでも、自分のペースで終わっていく。そこに、人間にはなかなか持てない落ち着きがあるように見える。
咲き始める季節は、希望のようにも聞こえる。けれど、もっと正確には「待つことの許可」なのだと思う。何かを急いで取りに行くのではなく、必要なものは必要な順序で来ると信じていられる期間。空模様がはっきりしない日々に、アジサイだけが決まった形で色を灯す。その姿が、いつの間にか私の中の不安をほどいてくれる。

アジサイの花が見え始めたら、私はそれを一つの合図だと思う。心をせかさないでいこう、と。歩くこと、眺めること、ほんの少しだけ呼吸のリズムを変えること。そのくらいの小さなことから、私はこの季節と折り合いをつけている。濡れた道に立って、青や紫のかたまりを見上げる時間は、たいてい短い。けれど短いからこそ、残り続けるのだろう。季節が移っても、あの色だけは、心のどこかに静かに残っている。
