責任の所在
永田町界隈ではGO TOキャンペーンの取り扱いを「国が判断」すべきだとか「地方自治体の判断」に任せるべきだとかとで、責任を擦り付けているように思てならない。他人事の様だ。
正直言って新しい政権の存在がぼんやり霞がかかって見えてこないと感じた。
そこには責任の所在をどこに置くのかが「結果」というストーリーに翻弄されているようだ。
私自身の考えではこのようなキャンペーンは、時期尚早だと思いたい。感染拡大の要因ではないか。
日本語は、閉じた集団の中であいまいに合意を形成するのにはとても都合の良い言葉だ。
半面、無責任な言語でもある。例を挙げれば、「阿吽の呼吸」「暗黙の了解」「空気を読む」など外国では到底理解しがたい。
明確な発言をすると、責任がついてまわるとされるからだ。昔から日本人は、責任の所在を分散させて、問題が起きたときに誰かひとりが責めを負うことがないよう配慮してきたという。
ある問いかけに対し、「どちらでも良いですよ」とか「お任せします」など、自意識のはっきりしない人は、結果としてマイナスイメージが発生した時に必ず問いかけ者の意向に「同意しただけ」と責任を回避してしまう。
世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ