関西の四季を呟く

関西の四季や出来事を写真を交えてお届けします。

西瓜


 最近は西瓜を丸ごと一つ買う機会がなくなった。値段は高いし、子供たちは独立して、食べ尽くす家族もいなくなったせいでもある。老夫婦二人では到底手におえない量だ。


 今ではスーパーでカットフルーツを食する量だけを買っては昔の記憶を手繰り寄せては家内と「あの時は!!・・・」なんての話題になる。




 私が30代のころだった。電話ボックスから、「今から西瓜を買って帰る」と連絡を入れ家内、息子、娘らが額に汗を滲ませて私の帰りを今か今かと待ちわびていたようだ。
 仕事をいち早く終了し、なじみの八百屋さんに立ち寄った。普通は八百屋の店主にどれが甘いのかを訪ねては店主任せに買ったものだが、私が西瓜の頭を「ぽんぽん」と叩くと、重めの音だが済んだ高い音がするのを店主がその音を聞いて、「間違いない。それは甘いぞ」と自信をもって言っていた記憶がある。




 重たい西瓜をぶらさげて玄関の引き戸を開ける。そこで待ち構えた世界は現実を逸脱した「一大決心」の場であった。



  直径30センチはあろうか西瓜に家族4人の視線は全神経を集中して向けられていた・・笑。


 丸ごと🍉はどんな中身だろうかと空想し、包丁を入れる瞬間の魅力がたまらない。「丸ごと」は時間を凍結する働きは当然だが、それだけではない。空間をも操り時間という尺度を完全に分断する「物体」ではないか・・笑。



 空腹感と緊張感をもって🍉を割った瞬間、何か特別新しいものを発見したかの如く、何か得をしたかのように覗き込む。新鮮な空想ばかりが湧いてくる。・汗・・・童心に帰ったようだ・・笑。

再考・SNSでの考え方

 対話とディベート(討論)そして会話はどこが違うか。そんなことはSNSではどうでもよいことかもしれない。「繋がり」という言葉は、手紙を必要としない現在では、電子メディアにばかり使われているからだ。

  面識のない相手とツイッター、ラインやブログで気軽に「友だち」になる一方、そのネットワークから外れれば、あっけなく絆は失われる。
 しかしながら、その様な考え方は大きな過ちであり軽率であり無分別であり真の「繋がり」に値しない平然とした虚心坦懐 の世界である。



 私は、直接対話や討論よりもSNSのほうが率直に遠慮なく意思が伝わり心が開けるように感じる。

 相手の面識が解らない傍ら、想像力が働き、投稿者の文体や写真でおおよその生活習慣が想定されるからだ。




 私から見れば現在、私が置かれている環境からして「孤独から解放されたい」という様な願望で、一種の心理療法で誰かと繋がりを得ないと寂しいと感じている。



 歳とともに友人が離れてゆく悲しさか。




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