関西の四季を呟く

関西の四季や出来事を写真を交えてお届けします。

春を哲学する


 人は考えてから歩くのか?歩いてから考えるのか?歩きながら考えるのか?・・・・。
アメリカ人はまず歩いてから考える。ドイツ人は歩きながら考える。日本人は考えてから歩くという。性格の違いや文化の違いが大きく左右しているのだろうか。日本人は「石橋をたたいて渡る」ほど用心深い性格なのかもしれない。
ーーーーーーーーーーー
 だが、そういう日本人でさえ、日本文学の原点を忘れかけてきたようだ。外国では日本の江戸時代から明治、大正についての言語に興味する人が多い。「啓蒙期の思想文学」の原書を読んでいる外国人をバスの中で見た。坪内逍遥の小説神髄である。もしも質問でも受けたらどうしようと内面ドキドキしながら彼女の行動が気にかかった。容姿を見て多分、日本文学を研究のために留学しているのだろう。



 正直言って私は、源氏物語や平家物語などの原書文法に悪戦苦闘してしまう。



今の気持ちを古文にしてみたがこれが精一杯・・・汗。


「わびしきうつつ吐き捨つるためにここ志して訪る。わたりは悲しみを忘却するために哲学す。冷たき風に、粉雪のごとく白き花びらをうつろはする桜の木。春のおとずれを感ぜさするその姿は、自然の冷酷さに抗ひつつ、たくましく生くことへの喜びを表せめりき。
 残りの人生をいかに生き抜くやを考へつつ・・・・。
 花弁のひまよりは、眩しき際の光の粒が地面に乱反射しかほどまでの麗しさは到底言の葉にせられず。 かくて瞬生み出だされし影が、いたづらげなる存在濃く主張せめりき。
 心地よいが、やや冷たき風は無心の存在感主張し、枝通して伝へくめりはあらずや。
 かくてゆるるはなびらは風の向きに合はせて小さく頷きて我々を出迎へたりき。
 ただただおのづから感謝なり。」



 先日、京都、銀閣寺を経て法然院、さらに南禅寺を目指し「哲学の道」を散策した。私は何も考えず、「ふわふわ」と桜の雲海を想像しながら、目的もなく徘徊するしかない。なすがままに。
ーーーーーーーーーーーー
 一年の計はやっぱり桜なんだな??!。


昨年のソメイヨシノ!!でした!!

×

非ログインユーザーとして返信する