関西の四季を呟く

関西の四季や出来事を写真を交えてお届けします。

心の処方

6月15日、午前7時。


  仕事場に向かういつもの道。緑々とした背の高い雑草と真横に陣取る低木が重なり合い、生い茂る川の堤防を上り詰めると、草藪の方から、極めて遠くではあるが、小さな、低い、それでいて何となく不満げな野良猫の鳴声が夢の中に彷徨うように聞えて来る。



 数分もする内に追々にその声は近附き、間もなく私の歩く後ろに近寄り、振り向けば止まり、歩き出せば近寄るというような繰り返しの動作を10分も続けば大体の予想が読み取れるわけである。




 よほど腹が減っているのだろう。仕事場で食する弁当をその場に差し出し彼の行動を見定める。弁当の中身は焼き魚、だし巻き卵、鶏のから揚げ、そしてイワシの缶詰である。

 彼は私に近寄って無警戒にも前足を「ちょいちょい」するしぐさをしたかと思えば頭を膝に「スリスリ」しながら、私と弁当を交互に直視する。




 日の昼飯は残念ではあるがコンビニで済ませようと心に処方したのである。
 家内に謝罪の念と明日また会えるかな!



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笑! 吾輩は猫である。名前はまだない。 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。



  しかしながら飯をごちそうになった爺さんから「みけちゃん」と呼ばれた。照れるではないか。

昭和の喫茶店の想い出

 
 書類を整理していたら昔の写真が出てきた。学生時代「18歳」の写真だと思う。おそらくバイト先の喫茶店「銀座ルノアール」だと推測する。


 親不孝であり、放蕩に放蕩を重ねたぶざまな一葉だ。



 昔を思い浮かべながら当時の時間のゼンマイを巻きたくなるのは、大切な忘れ物を置いてきてしまった後悔と悔しさが相互して
忸怩たる思いを感じてしまうからだろうか。



 物事を理解する前提に自己否定を感じてしまい、完璧にできた時にだけ評価をして、それ以外はできなかった「失敗」と認識する悪癖が中学受験や大学受験失敗など常に不安が付きまとっていた。現実から見た理想像が遥か彼方であまりにもギャップが多すぎた・・・・・・・・・・・。


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「記憶の闇の中からあの日の光景が蘇ってくる昭和時代の純喫茶」


  東京に住む人なら誰もが目にしたことがある喫茶室「ルノアール」。学生時代、バイトしていたり、友人との待ち合わせとして利用した思い出ある喫茶店が今でも健在と聞いて古い昔の思い出を手繰り寄せては学生時代の大切な思いを再考してしまう。



 しかしながら一方では喫茶店にしろレストランにしろ行きつけの店が閉店するのはとても残念である。町がシャッター化し、壊れていくようでいつもお店があった場所に何も無くなってしまいとても切ない。閉店したという東銀座の喫茶店「樹の花」は学生時代の回想と夢が、分かち難く交じり合う「化石が眠る店」として生涯忘れることはない。



 光景は、頭の中にとても鮮やかに残っていて、それは私にとっての大事な風景の一つになっている。
 思い出を断捨離するたびに空疎・空虚感が付きまとい感傷的なあまりに偏狭的な気分になってしまう過去の整理だ。


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汝!!感傷的になるのは、暇だからだ。  精神的に 弛緩 していると、思い出が亡霊となって満ちてくる。ここちよいが、すぐに飽きる。早くすませたくて強烈な再現の強い光の中に一瞬意識を飛び込ませてはすぐに帰ってくるのだが、このところルノアールの事はまだいつでもぼんやりと私のまわりを取り巻いている

・・・いつか読んだ本にこんなことが書かれていたな・・汗・笑