今日も元気
人生には、人それぞれの分水嶺がある。そこからみえるのは、人生の余命である。自分が、どれだけ生きられるか、その感覚である。分水嶺の前は、年齢に関わらず、その先があると感じている。
だから、いつまでも、青春の思いは継続されている。時間は、同じように、上にのぼっていると思っている。分水嶺の前にいる人は、自分の力で生きていると錯覚している。
自分の力で生きられると思っている。だから、人生が見えていない。いつまで、たっても、その迷いの中にいる。自分がその迷いの中にいることさえ、みえない。
しかし、だんだんと、この世というものが、どんなものか、わかってくる。なにか、べつなものの中に、自分の命や意識はあるのだと、思えてくる。
自分は、何かの一部だと気付き始める。どんなにもがいても、この世がなんであるのか、わかり得ない、永遠に、把握しえないものの中に我々は、含まれている。
時間がくれば、消えていく存在、永遠にこの世では生きていけない。それを認めざるをえない、それが、分水嶺のその先にあるものの実体である。
「死」は確実に私の視界に入ってきている。一生懸命生きてきたはずだが、自分の人生は何だったのだろうか? 死をどうやって迎えればいいのか?
迫り来る人生の終わりに、「死」への自分の気持ちを決めておくこと、あらかじめ「覚悟」を持つということが大事なのだろうか。しかし、いくら考えても「死」の問題は答えが出ない。答えが出ないものをあれこれ考えても意味がないと思えてしまい、堂々巡りだ。
これまで生きてきた時代の総決算をするべく、行動を起こさねばならない、と以前から思いつつ、果たせていない。「こんなにだらしない生活を送っている俺が、長生きできるわけがない」と、長いこと思っていた。
そして、そんな私は、まだ生きている。