関西の四季を呟く

関西の四季や出来事を写真を交えてお届けします。

忘却曲線 

「忘却とは忘れ去ることなり。 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」・・・・・・・・・・君の名は・菊田一夫



 心理学を学んでいると必ず耳にする、無意味綴・連想価が頻繁に出てくる「エビングハウスの忘却曲線」。冪函数でも表すことができるのではないかと思う。


簡略すると
 「忘却とは、実際に経験し保持していた情報を思い出せず、意識することができない状態のことを指す。


心理学的には、Ebbinghausの忘却曲線が有名で、忘却は時間経過の関数としてとらえられる可能性が示されているが、実際には忘却は記銘のエラーとして解釈され、そのエラーを生み出すものとして意味処理や注意などの影響が考慮される。


 忘却に関連する神経基盤としては、海馬や海馬傍回を含む側頭葉内側面領域や頭頂葉、背外側前頭前野などの関与が指摘されている」‥‥とある。



 だとすると、私の人生とは矛盾する私は人生の大半「半世紀」は関西に在住しているが、故郷である東京での記憶「生まれてから22~24歳まで」の方が時間が長く、記憶がはっきり感じている。



 さらに、私が2歳半の夏、肺結核の母が大量の血を洗面器に吐いて亡くなったことを一種の「トラウマ」として脳裏にこびりついて血を見ると発作を起こすほど。当時の様子は、いまだに思い出しては震えが止まらない。



 あまりの異常さに、小学校に入学するとき父親に連れられて精神科に見てもらったが「精神的外傷」として生涯忘れることのできない「心的外傷後ストレス障害」と診断された。今風の虐待された幼児と同等の症状にあたるそうだ。




 そこには「忘却」という概念は全くなく、むしろ、すべてが鮮明な映像として次から次へと投影され「現実存在」の世界がすぐそこにあるように思えてならない。



 むしろ関西に住み着き、結婚して現在に至るまでの平凡な記憶はほとんど「マンネリ化」して毎日が同じことの繰り返しで、整理されていない「感情の起伏がない」と感じるのは何故だろうか?




 時間の本質は、実際には自己の記憶の中の「時間の伸び縮み」で起こりうる現象だと信じたい。小学校、中学校の行動記憶は忘却どころか、いまだにとても鮮やかに鮮明である。 



  最近、歳をとるたびに過去を思い出し、一年の尺度が短くなっていくようだ。・・・・72歳焦燥の秋の宵


竹久夢二の世界が好き
         


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