関西の四季を呟く

関西の四季や出来事を写真を交えてお届けします。

我思う、ゆえに我あり

再会、何年ぶりだろうか。

 3月初旬、大阪に移住するため夜行列車「銀河51号」に同乗する他人ではあるが、私と同世代らしき彼。あれから半世紀の月日を経て、「定年雇用」で勤めている大阪、福島区にある出版社に行ってきた。
 彼は私を人生の岐路の救世主と呼んだ。「正直言って照れてしまうが」



 半世紀前の東京駅11時40分発・急行寝台「銀河51号」大阪行きでの出会いであった。彼は人生に蹉跌を幾度となく味わい、学生運動の標的にされ生きるのが辛いと宛先もなく切符を衝動的に買ってしまったという。ある意味では私と同じであった。

 行先は「名古屋」だという。勿論、所持品や所持金すらない。それを見て私は、彼の無謀な行為に助言、名古屋には夜中の2時に到着するので行動に制限がありあまりにも無計画な行動に同情すら覚え、「大阪なら朝7時半に到着するから一緒に行ってみないか」といって名古屋から大阪までの運賃を建て替える条件を添えて彼の放蕩ぶりを正した。



 正直言って実は私も同じ病理心境で、親父の死後、遺産相続で親戚連中が資産の分配で険悪となり現実の醜さに耐えかね、また就職先が関西の某新聞社の社会部内定ということもあり、本音は現実逃避したくなり「東海道線下り8番線」のホームにいた訳である。



 当時はこのような光景があちらこちらいくつもあった。上野駅が最も多く里帰りする若者であふれかえっていたようだ。一方では、花の東京を目指して一旗揚げ独立したいとする俗に「おのぼりさん」という動きもあった。



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 ただ、彼よりも私に有利なのは就職や生活に支障のない羅針盤たるものがあったことである。記事を書いて飯を食う文筆手段があった。


 彼の「寮あり食事つき」の飲食店への就職を確認後、落ち着いたらこの喫茶店で会おうと約束、梅田阪急東通りにある喫茶「田園」で別れて以来である。



 あれから半世紀。互いに共通する業界新聞のコラムを読んで、もしかしたらと連絡し、偶然性が一致し「艱難辛苦」を乗り越えた現在までの空白な時間の発条を巻いたのである。
 彼も常に私の投稿する業界新聞や週刊誌のエッセーを気にしていたようだ。私同様、震災前に結婚。子供2人、もうすぐ孫ができるという。
 「袴田」というめったにない珍しい名前が功を奏したらしい。





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長文ですみません。続編はまたの機会に!!汗

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