関西の四季を呟く

関西の四季や出来事を写真を交えてお届けします。

梅の季節

 受験シーズン・・・私の若かりし頃とオーバーラップして昔を懐かしく思う。もう一度生まれ変われるものならもっと真摯に青春を送りたいとする願望が強いのです。


 私の青春時代は苦い悲惨な思い出ばかり。
片思いの彼女との出会い・・・・・ここで「私」と彼女A子との関係を素描しておきたい。
 彼女A子は、大学受験冬季特訓講座「池袋〇〇木ゼミナール」で知り合った。私の斜め前の席であったのか、彼女の行動のすべてが読み取れ、次第に好意を寄せるようになり、受験といった緊迫した環境からかなりずれてしまい、片思いの日々がやがて悩みの日々へと変容する私に与えられた結論は「受験失敗」という結果だ。



 受験に失敗した「私」は滑り止めの早稲田大学政治経済学部~第二文学部で社会学を学んだ後、3年後に就職活動で三流ではあるが証券会社か、新聞社での就職が内定されているはずであった。



 一方、A子は東京大学、経済学部に席を置き、学生運動の渦中をさまよっていた。ちょうど「私」らの年代は70年安保体制下の学生運動が尾を引いた時期と重なり合っていた。


 そのような最中でのA子は運動に悩み、「私」は男女関係で挫折する。「政治」と「性」という二大構図が、A子と「私」だけでなく、その周辺にいる若者たちの青春を揺さぶり、ときには自死という最悪の結末にまで至らせていた激動の70年代であった。



 時効・・・・今だから言えること



 実は私も学生運動の渦中に存在していたことをA子は皆無の様であった。私の所属する「京浜安保共闘」の思想変化に自身の思想心理と異なると感じ運動から抜け出そうとする最中、横浜国大生「寺岡恒一」氏の過激な行動はエスカレートするが、やがて彼は連合赤軍メンバーにより殺害され、やがて私にもくるであろう「総括」の標的にされる自身の身の危険を感じ取り、東京を離れる結果をA子は知る由もないのである。


 私が東京を離れる代償がA子への裏切りとなろうとは・・・・・・・・・・・・・


               
後はそのうち。

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